元K-1ファイターでK-1MAX元世界王者の魔裟斗選手がYouTubeを始めました。
私は昔から魔裟斗選手のファンでK-1MAXが出来た時から
ずっと応援をしていました。
そして過去(2008年)に当時やっていた無料ブログで
『魔裟斗の歴史』という記事を書いたことを思い出しました。
今回は魔裟斗選手がどういったファイターだったのか、
どういう戦績を残したのかを時系列にまとめました。
当時の記事を加筆修正していますので、
参考にしてみてください。
K-1 MAX誕生以前
魔裟斗は全日本キックでキックボクシングデビュー。
デビュー戦では「キックのプロテストをKOで合格」という前評判で試合もKO勝ち。
しかし、二戦目で小比類巻貴之 と対戦。
首相撲からのヒザ蹴りでKO負けを喫し、早くも挫折を味わう。
その後の三戦目からは連戦連勝。
一気に全日本ウェルター級王者に昇りつめた。
だが、2000年3月14日に全日本キックと所属していた藤ジムを脱退。
フリーとなって自主興行の「Wolf Revolution」やタイ遠征、
K-1のワンマッチに出場し、勝利を重ねる。
当時の魔裟斗は「キックの薄暗いイメージを変えたい。有名になりたい。」と常に考えていた。
そのためにはチャンスが来るまで結果を出し続けなければならない。
魔裟斗はムラッド・サリやモハメド・オワリなどの強豪選手をKOで沈め、機を待っていた。
2002年MAX誕生、2003年世界王者に
2002年とうとうチャンスはやってきた。
K-1 WORLD MAXの誕生である。
魔裟斗とコヒのライバル関係に注目されていたが、主役はまさしく魔裟斗であった。
初回の日本代表決定トーナメントで、
「勝って当たり前」、「みんなKOで倒す」などとビッグマウス連発の魔裟斗だが、
盛り上げるため、自分を追い込むために発したセリフだった。
その言葉通り一回戦、準決勝をKOで勝利。
決勝ではライバルといわれた小比類巻に完勝し優勝。
有名になるために巡ってきたチャンスを見事ものにした。
そして迎えた世界一決定トーナメントでは、
一回戦にアメリカのドゥエイン・ラドウィック からダウンを奪い完勝。
順調な滑り出しだったが、
準決勝で後に初代王者となり、
魔裟斗と4度も対戦することになるアルバート・クラウス に、
2Rにダウンを奪われまさかの敗北。
魔裟斗は悔しさからの涙を隠せずにいた。
後に「負けて泣いたのは初めて」とコメントしているほどだ。
世界王者のクラウスに標的を絞った魔裟斗は、
10月に行われた世界王者対抗戦でリベンジマッチに臨むも、惜しくもドロー。
かくして2002年の魔裟斗の戦いは終わった。
2003年に入り、また日本代表決定Tから出直しだが、
武田幸三など他のファイターをまったく寄せ付けず日本トーナメントを二連覇。
「こんなところで負けてられない」、「はっきり言って本番は次(世界T)」
という発言からも世界一への気持ちが伺える。
そして迎えた2003年世界一決定トーナメント。
一回戦にマイク・ザンビディス に辛勝した魔裟斗は、
準決勝のサゲッターオ・ギャットプートンにKO勝利し、決勝へ。
決勝で待つは初代王者クラウス、最高の舞台が整った。
魔裟斗は自信がみなぎっていたように思えた。
クラウスの攻撃をさばき、自分の打撃を当ててゆく。
そして2R中盤左フックをクリーンヒットさせKO勝利。
念願の世界王者に輝いた。
「やっと世界最強の男になることができました」
魔裟斗は中量級のキックボクシングの人気をK-1ヘビー級以上の高さに押し上げた。
K-1 MAXは魔裟斗のために作られたと言っても過言ではないが、
その魔裟斗自身がビッグマウスで自ら注目を引き、
しっかり結果を残したからこその人気高騰であった。
魔裟斗の歴史②に続く
K-1マックスが誕生する前から2003年までの魔裟斗の歴史でした。
この時期ははっきり言って魔裟斗の絶頂期でした。
日本トーナメント連覇、二年目で世界トーナメント優勝。
そのため、テレビ番組や雑誌の取材に引っ張りだこになり、
一躍お茶の間にも有名になりました。
しかし翌年2004年から魔裟斗は苦難の連続が待っています。
魔裟斗の歴史②はこちら
コメント