魔裟斗選手の格闘家としての歩みを勝手に文章化した第二弾になります。
魔裟斗の歴史①はこちら
さあ魔裟斗選手はどういった闘いを繰り広げたのか?
当時の様子などを知りたい方は読んでみてください。
2004年王座陥落、2005年迷走
2003年にK-1MAX世界王者になり、
世界王者対抗戦ではボクサーのビンス・フィリップスをローキックでKOして
最高の一年にした魔裟斗 だったが、
2004年は苦難の連続であった。
世界王者になったので、日本代表決定トーナメントは免除。
小比類巻貴之 が優勝するも「これで世界Tでは一人消えたな」と余裕のコメント。
そして2004年の世界一決定トーナメント開幕戦。
相手は日本トーナメント準優勝のセルカン・イルマッツ 。
2004年からアウトボクシングにスタイルチェンジした魔裟斗にはいつもの攻撃が見られない。
動体視力が良く、距離の取り方が上手いので、
相手の攻撃をかわすのだが、攻撃が物足りない。
3-0の判定勝利だったものの他の選手には魔裟斗くみし易しの印象を与えた。
7月7日、チャンピオンとして迎えた世界一決定トーナメント決勝戦。
この年のスタイルチェンジの理由がわかるほど魔裟斗はこうコメントしていた。
「一番良い闘い方は、相手の攻撃をもらわないこと」
チャンピオンになって守りに入ってしまったからか、
それとも強くなるためのものかわからないが、
後にこの大会での魔裟斗に襲い掛かる死闘、
そしてその後のスランプを考えると、
このスタイルチェンジは失敗だったと言えるだろう。
一回戦の相手は開幕戦でクラウスからダウンを奪った新鋭のジャダンバ・ナラントンガラグ 。
実績から考えると魔裟斗有利だと思われていたが、
魔裟斗の思わぬ苦戦で僅差の判定勝利。
慣れないアウトボクシングのせいかバッティングまでもらってしまった。
準決勝は4度目の対戦となるクラウス。
1Rにダウンを奪い判定勝利も、良い打撃をもらい満身創痍の状態。
決勝はJWP と小比類巻貴之に勝利してきたブアカーオ・ポー.プラムック 。
相手はまだ22歳とあって体力十分。
一方の魔裟斗は満身創痍。始まる前から結果はわかっていたようなものだった。
ブアカーオの蹴り技で完封され敗北。
魔裟斗の王座はあっけなく陥落した。
この大会の後、魔裟斗はメディアへの露出が少なくなる。
王座陥落のショックと、内容の悪い試合をしてしまったのが悔しかったのだろう。
2005年に入り、もう一度王座奪還を目指す魔裟斗は、
世界トーナメント開幕戦で韓国王者イム・チビン と対戦。
試合一週間前に足に怪我をしていたが、完勝。
だが、ファイトスタイルは相変わらずだった。
そして迎えた2005年世界一決定トーナメント決勝戦。
一回戦は2度目の対決となるマイク・ザンビディス 。
前回は結構ザンビの打撃をもらったが、今回はスウェーやステップなどでアウトボクスに徹し、
クリーンヒットを許さない。
そして3Rには右ストレートでダウンを奪い判定勝利。
順調な滑り出しと思われたが、
試合途中に足を骨折し、トーナメントを棄権。
魔裟斗の2005年はここで終わった。
王者になってからの心境の変化
魔裟斗は王者になった2003年の世界王者対抗戦のインタビューでは、
「弱い相手とやりたい。なんで俺ばっかり強い相手なの」
というコメントを残している。
これは王者になったことにより守りの意識が強くなったのだろう。
ファイトスタイルの変化もその影響であろう。
また、魔裟斗は他の相手に対戦相手として指名されることをすごく嫌う。
2004年の世界一決定T決勝戦の前日記者会見で、
JWPやザンビディスから決勝で魔裟斗と闘いたいと言われた時、
「よくわかりません」と言って不機嫌な顔になった。
同年の王者対抗戦で、山本”KID”徳郁から対戦表明された時も不機嫌な表情を浮かべていた。
これは、『自分に向かって来るということは、自分に勝てると思ってるからだ』
と考えられ、魔裟斗のプライドが許さなかったからだろう。
魔裟斗の歴史③に続く
2004年に王座から陥落し、
2005年には足の怪我で長期離脱を余儀なくされた魔裟斗。
この2年は本当に苦難の年だったと思います。
しかし翌年2006年から意識が変わり、
初期の頃のギラギラした魔裟斗に戻り、
王座奪還に向かいます。
気になる方は『魔裟斗の歴史③』をチェックしてください。
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